2017年10月30日月曜日

2017/10/30: My family History(14) 一修山慧居士(其の5 大学生時代-2)

学生寮の生活では、様々な人間がいるのだということを学びました。大学に通いながら、酒を飲むために(?)血を売っているという姿も見ました。飲んでいたのでは間に合わないので、エチルアルコールを直接血管に注射している姿を見たこともあります。若しかするとアルコールではなく、別の麻薬系だったのかもしれません。本人はビタミン剤だなどと言っていましたが、注射後ご機嫌が良くなるので、アルコールが入っていたことは、間違いないでしょう。普通の生活から見ると、どう考えても異常な人々が周辺に見受けられました。そういう流れに巻き込まれないように生活して行くには、やはり、普通の生活をしている人々と交われる、市中の下宿の方が良いのかなと、2年生になってから、学生寮を出ます。
  とはいえ、すれすれラインのところで、面白い経験もありました。飲んべえの上級生で、将棋の好きな人がいたのですが、棋力はあまり強くありません。その人が、「寿司を只で食べに行こう」と誘ってくれたのです。寄宿舎から南に少し下った所に、飲み屋街が有ったのですが、その中の一軒、店主では無くその倅だったか、まだ若い職人さんで、将棋の好きな人がいまして、「俺に勝ったら、寿司を只にしてやる」と上級生を誘って、一種の掛け将棋をしてくれたらしいのです。所が、何度やっても、上級生は無料の寿司にありつけない。それで、私に「代打」を依頼して来たわけです。
 当時、私の正式な棋力は、将棋連盟傘下のアマ棋力認定状で、13級だったと思います。カードを持っていました。当時の常識的棋力差でいうと、アマ初段に飛角落でさせれば、12級でした。ただし、この認定をいただいたのは受験勉強を始める前でした。だますわけには行きませんから、「1年ちょっと前に13級でしたけど」と、カードを見せた上で、「わかった、平手で、勝ったら無料にするよ」。貧乏学生に対するボランティア気分で、OKして貰えたようです。
先輩すかさず、2番勝ったら、俺の分も只にしろ・・始終来ている常連客(あまり上客ではなさそうですが)ですから、ちゃっかり便乗。
 中盤に進む頃には、相手の棋力は見えて来ましたから、最初の一局は、きわどく勝つことにしまして、まず一勝。自分の分を獲得しました。そうそう、店はまだ開店時間でないころから始めたのです。続いて、上級生用の一局。「お店忙しくなりそうですね。早指しで行きましょうね。」。まだ弱いとはいえ、相手の棋力は見切っていましたから、ちょっと頓死気味に討ち取って、「あれ?詰んじゃった!」 誘ってくれた上級生の分も獲得出来ました。
 「連盟の免状って、結構強いんだなあ」。職人さんは、地元の将棋のグループでは、一桁級のランクにおられたようです。かなり、熱くなられて、また来てよ・・・向こうから再挑戦を受け、その後も1回、ご馳走になれましたが、申し訳ないので、お金を持ったときに、行くように変えました。
 認定状より強くなったのは、この1年、土木科のA君と知り合って、鍛えて貰っていたのです。当時工学部の学生で一番強いと言われたA君。どういうわけか、最初の一局で、問題にならないと思われた私が快勝してしまったのですね。多分、強いA君が私の棋力を探っているうちに、「横歩取」からの速攻が決まってしまったのでしょう。2局めからは、A君も容赦してくれません。この年13連敗。1勝13敗で一年終わりました。彼は相当強かった。・・・大学最後の年度の成績が、3勝2敗。この年だけは勝ち越して終わりました。

 将棋といへば、大山名人に(?) 「ゆで小豆」の缶詰を10個ほど頂いて、友人達に振る舞ったこともありました。名人戦が甲府でありまして、駅前で「大盤解説」があり、恒例の「次の一手」のあてものが有ったのです。その商品が「ゆで小豆」缶詰5個だったのですが、なんと、午前中の問題と、夕方の問題の2回、当ててしまったのです。正解者が少なかったのかも知れません。両方で10個になってしまいました。
 甲府の駅前に、「大道将棋」を出していた香具師とも仲良くなりました。何度か破って、ピースを頂きました。かれの話ですと、駅前や甲府銀座で、大道棋を破ったのが、私とA君だったそうです。香具師の家まで遊びに行って、「甲府で美味いもの、食べさせて」とねだりましたら、自家製の「ほうとう」をご馳走してくれました。暖かい思い出です。
 4年間の学生生活の時に、甲府市のアマチュア将棋の皆さんの教わったことも多かった気がします。そういえば、後の「米長名人」。当時小学校の1年生だったかな、もう少し上になっていたか?、将棋会で大人がきりきり舞いをさせられていました。
 次は、下宿生活の思い出を綴ります。

2017年10月12日木曜日

2017/10/10 My family History (13) 一修山慧居士 (其の4 大学生時代ー1)

 **大学生時代を書き始めたのですが、体力の低下が著しくなり、長時間入力が困難になって来ましたので、何回かに分けることにしました。分ければ、ダブりも出てくるかも知れませんので、気が付いたら修正加筆してゆきます**

山梨大学に入学して、本人はほっとしたのですが、学資を出してくれる母には、大変な負担をかけることになってしましました。つまり、生活費がかかるのです。最初の計算では、2500円の奨学金を貰い、8000円ほど補助して貰えば、何とかなるという計算でしたが、あとでよく考えると、当時の大学卒業生の初任給が、1万円程度だったのです。つまり、店を開いたばかりの母の立場で考えると、全然働かない大学生の新卒を一人雇ったことになりますから、大赤字です。これは大変な事です。

後年、倅がやはり地方大学に入って、その仕送りをするときになって、改めてその大変さを認識しました。

当初は、「学生寮」に入りました。1年半ほどして、「下宿生活」に移りますが、そうなると、送金依頼も増えて、12000円になってしまいました。アルバイトが予定通りに行かなかったというこも有ります。今のように多彩なバイトが無かったのですね。多いのは、所謂「家庭教師」。実は下宿生活になったときも、「家庭教師割引の下宿料」にして貰ったのでした。その時は、丁度近所に高校受験の中学生が3人いまして、面倒を見ましたが、上の二人を無事に希望校に入学させると、年下の子は、一人じゃいやだと、止めてしまい、生徒が途切れてしまいました。

話が飛んでしまいましたが、入学直後の「学生寮」に戻ります。昔陸軍の兵隊さんがいたという「旧兵舎」。二階建で、大部屋が並んでいます。多い時は一部屋4人になることもあったようですが、私の時は、3人部屋が多かったようです。同学年ではなく、学年の違う人達が一緒でした。

南側の窓に腰掛けて、鳳凰三山を眺めて過ごした時間・・・山に対するあこがれがすり込まれた時期です。武蔵野に育った木瓜爺には、茅が岳、八ヶ岳、南アルプスの山々は見た事もない風景でした。勿論冨士山も見えますが、甲府盆地からの冨士山は、6合目あたりから上だけしか見えません。お、今日は「瑞牆山」も見えるぞ・・なんて、北側の窓を覗きにいったり・・・碌に勉強もしないで、ぼーっと山を見ていた時間がどのくらいあったのか・・・

学問の方は、最初は順調でした。一年生というのは、教養科目というのでしょうか、語学、法律など一般的科目が多いのです。この種の教科には落とし穴が有るのです。何かというと講師がマンネリ化していて、毎年同じ事をしゃべって事足れりとしているのです。学生のほうも、単位を取るためにだけ講義に顔をだす。代返をたのんでおく。という流れで、遊びに出かける。試験の前には、代々伝わる先輩のノートをみて勉強する・・・試験問題まで伝えられています。年々同じような問題がでるわけですね。

遊びに行く先で一番多いのは、雀荘です。たまたま、木瓜爺は高校生時代に「賭けやインチキのない麻雀」を卒業?してしまっていましたから、誘われても出かけることは少なかったようです。

そんなわけで、1年生の時の修得すべき単位は、割合楽に取りました。ただ、第二外国語のドイツ語は危なかったです。語学には能力が無いようです。この1年で沢山単位を取ったことが、2年次の油断を生みます。









2017年9月30日土曜日

2017/09/30:My Family History (12) 一修山慧居士(その3 高校生時代)

 昭和25年3月23日、国分寺中学校を卒業した「チビ」は、昭和25年4月4月に、「東京都立立川高校」に入月した筈なのですが、関連する書類が残っていません。何とも不思議なのですが、卒業したときの「卒業証書」だけしか残っていないのです。
 この「立川高校」ですが、めまぐるしく名前が変わりました。新制中学になる以前は、「府立2中」「都立2中」です。東京の府立1中は後の「日比谷高校」、4中は「戸山高校」、「立川高校」も名だたるナンバースクールの一つでした。
新制の高校になった時が、「都立貳高」です。木瓜爺が最初に購入した学帽には、この「貳高」の徽章が付いていました。暫くして「立高」の徽章に変わったように思います。学生服の襟に付けたバッジは紫だったか? 一年上は緑でした。
当時の高校進学率は、まだ35%位だったように思います。兎に角、苦労らしい苦労もなく、進学してしまったもので、なにかふわふわした気分で、3年間を過ごしてしまった反省があります。本来なら、腰を据えて将来の進路について考えねばならなかった筈なのですが・・・
クラブ活動は、誘われるままに「地歴部」という、遺跡の発掘などをする部に名を連ねましたが、勉強するわけでも無く、部室で早弁をたべ、将棋の好きな友人と盤に向かう毎日です。残念ながら、将棋部がまだ無かったのですね。同学年で、一段棋力が上と見なされた3人の尻尾に加わっていました。他の二人は、チビよりも、終盤が強かったのです。この二人は、詰将棋の愛好者で、うち一人は、「詰将棋パラダイス」という専門の雑誌に作品が掲載される程の腕でした。この連中と付き合うことで、チビの棋力も格段に上がりだしたのです。つまり、「新作」に余詰めが無いかなど検討するからです。「余詰」というのは、作者が意図した詰め方以外の詰め方があったときの名前です。
学年での旅行・・遠足ですかねえ・・箱根の乙女峠を登りながら、彼らと「盤駒なし」の「脳内将棋」・・当時は「盲将棋」と呼んでいましたが、差別用語であるということになり、「脳内将棋」と呼ばれるようになりました・・を指したことを思い出します。
高校にいるときは将棋、土曜日の夜になると、中学生時代の仲間が集まって「麻雀」。麻雀を覚えたのは中学3年の頃ですから、面白い盛りが高校生時代だったのです。学生ですから、賭ける金などはありません。ノートを作って、成績を記録するだけです。
その時の採点法は、かなり工夫されたもので、大勝や大敗の運の要素を平滑化して行くような評価法になっていまして、一年も継続すると、実力的なレイティングが分かる物でした。ただし、大事な「つきを呼ぶ力」の評価に思い至らなかったのは残念です。分析力の不足です。
高校3年の運動会の仮装行列では、女装させられ「卑弥呼」になった写真がありましたが、自分でも区別が付きません。
そういえば、「チビ」と呼ばれなくなっていたのです。高校一年生の時に延びた身長が13cm、2年でまた7cm程延びまして、人並みになってきたのです。卒業の時には、165cm程になっていました。ただ、下半身のひ弱さは残っていまして、体力測定で100mを20秒もかかってしまい、本気で走っているのか!と、どやされました。
 高校の学業で、履修した学科を見ると、何かを考え始めたことは分かります。というのは、「理科」の科目は、「物理」「化学」「地学」「生物」と4学科全部受けています。反面「社会科」は「一般社会」と「日本史」しか受けていないのです。「世界史」を学ばなかったことは、後々、大きなハンデキャップになってしまいました。
 理系に進もうと考えたのだけれど、どういう専門が良いのか分からなかった・・と、云うことでしょうか。
大学への進学が現実の問題となったとき、頭に浮かんだのは、祖父「学柳明圓沙門」が在籍したという「蔵前」つまり、現在の「東工大」です。一方家族などの周辺からは、2年先輩に当たる叔父が、一浪して入った「東大」です。受験用の問題集などを見て、試してみると、どちらもハードルが高すぎることがハッキリ分かります。叔父の力をしても一浪、高校時代遊んで居た俺では3浪くらいしそうだ・・・めげました。
 我が家の経済力から考えると、浪人は出来ない、何とか早く社会人として給与を貰えるようになる必要がある。しかし、普通高校卒業だけで、すぐ就職しても、とても稼げる世の中ではないらしい。やはり専門性を持たないといけないようだ。当時、大学進学率は7%とか言われていましたが、実際は10%位はあったようです。
考えた末、表向きは「東大」「東工大」を掲げておいて、実際には一発合格の出来る地方大学を見つけよう・・・私立大学は学費が足りないだろうから、出来れば国立。とまあ考えが固まって来ました。とすると、今で云う一斉テスト、この年の呼び名は「インテリジェント・テスト」で、一発屋の運を試そう・・・中学の時の「アチーブメント・テスト」再現の夢に賭けたのです。
 運良く、試験場で隣の席になったのは、同級の割合気安く話が出来る女性でした。冗談を言いながら、リラックスした気分で、問題に向かいました。結果は、上出来でした。結果が分かったとき、クラス中がエーッと驚いたくらいです。立高全体でも、上位に入っていました。一発屋の本領発揮で、得た72点。
これを、有効活用するには・・・と、悩む前に、またまた幸運がやってきます。中学から立高へと一緒に進学してきた、つまり一緒に麻雀を研究してきた(?)親友が、「山梨大学」に行かないかと誘ってくれたのです。
一緒に調べて見ると、なんと、「インテリジェント・テスト」の点を5倍して加点してくれるというのです。前年の合格者の最低点は500点位のようです。72*5=360 何だ、あと、7科目(600点満点)だから、半分出来れば660になるよ。そのくらいはできるだろう・・・と、いわゆる滑り止めの学校は決まりました。
 「山梨大学」というのは、先だってノーベル賞を頂いた「大村智」博士で有名になりました。大村さんは、一期あとの後輩ということになりますが、彼が卒業した「学芸学部自然科学科」というのは、この年にはまだ出来ていませんでした。「学芸学部」自体は普通の中学までの教員養成機関で、むしろ昔の「山梨高専」から大学になった「工学部」のほうがメインでした。「工学部」のなかで私が選んだのは「電気工学科」。これから伸びる産業は、「電気通信」だと見込みを付けたのです。「学究」の為というより、将来の「就職」を睨んだ選択でした。
それは、さておいて、当時国立大学に関しては、受験日が二通りあり、一期校、二期校と呼ばれて居ました。一期校はどうせ落ちることは分かっていましたから、格好付けて、「東大受けたけど駄目でした」にしました。実際に受験してみて、問題の質自体が、2レベル違うなあ・・・という感想です。
「山梨」のほうは、前日胸部レントゲン写真をとる(試験の一部)があり、前泊になりましたが、宿舎は、大学で用意してくれた「青年会館」。都会とは違った田園に囲まれた場所。ゆったりとした気分で、受験できました。初日が終わった所で、試算してみると、もう合格ラインに届いているようでした。後は名前の書き忘れで0点を取らなければ大丈夫だ・・・。
昭和28年3月1日 都立立川高校卒業。この「卒業証書」が残っています。







2017年8月20日日曜日

2017/08/20: My Family History (11) 一修山慧居士(その2 中学生時代)

国民学校を卒業した「チビ」は、新制中学に進みます。卒業間際に、進学についての調査がありました。当時、ある程度の経済レベルを維持していた家庭ででは、海の物とも山の物とも分からない「公立新制中学」を嫌い、「私立中学校」に進学させました。「チビ」は、家の生活が苦しいことはよく分かっていましたから、「国分寺中学でいいよ」と、言い切っていました。多分、唯法徹心居士に「鶏頭牛尾」の話を聞いたのもこの頃だったのでしょう。
 で、前記の調査の時に、「国分寺中学に行くつもりです」と、担任の藤野先生に告げたところ、「そうか、行ってくれるか!」と、えらく感動してくださって、戸惑いました。なぜだったのかよく分かりませんでしたが、このブログを書くときに6年生の成績表を見ると、なんと、2学期3学期学年末と、全学科「優」だったのです。小学校の優等生を新設の公立中学校に送れるということに、何か意味があったのでしょう。この藤野欣三先生、後年国分寺第一小学校の校長になられたとかで、その歓迎のために同窓会を開くという通知が我が家にもあったそうです。所が丁度、木瓜爺が海外勤務の時で、日本におりませんで、お会いできませんでした。残念なことに、倅が、国分寺第一小学校に入学したときには、もう在職されていなかったようです。
国分寺には、所謂「高等小学校」・・「国民学校」時点でいうと「青年学校」でしょうか? ・・しか有りませんでした。それを吸収する形で、国分寺中学が誕生しました。1年生が中学としての入学、2,3年は小学校高等科のスライドです。小学校高等科は義務教育ではありませんから、人数も限られています。1年生だけが、大量に集められた中学です。先生の質も様々。青年学校時代の名残か、直ぐに体罰を与える先生もおりました。
残念ながら、尊敬に値する上級生には巡り会いませんでした。不良グループに直行する危険さえ感じました。それで、逆に同期生の結束のようなものは、割合早く出来ていったように思えます。
最初の一年は、小学校時代の顔見知り友達が、朝寄ってくれて、一緒に通学してしました。子どの足で40分ほど、畑の中の道を歩いて行きます。同年のちょっと不良懸かった子は、幸いに同じ町内でしたから、顔なじみで、いじめられることもありませんでした。「よう!」くらいで、別グループです。
最初は男女組でしたが、隣席の女の子に「きれいな手してるねえ」なんて握られて、どぎまぎしてしまったり・・・女の子はませているのだ・・・なんて思っていました。なんせ、クラスで前から2番目の「チビ」ですから、ペットだと思っていたのかも知れません。あ、思い出した、その子、教頭先生の娘さんでした。気っぷの良い姉御肌でしたねえ。でも、こちらから握ったら、退学!と、言われたかも知れません。懐かしい思い出ですね。
そのうち、「野球」が流行始めます。「六三制 野球ばかりが 上手くなり」などと言われた時代です。新制中学生は勉強が駄目な代わりに野球だけは巧くなった、という意味の冷やかしの川柳です。 流行ったといっても、最初の頃は道具さえ揃いません。器用な子は手作りのグローブで参加。「チビ」は幸いなことに、父親「唯法徹心居士」が米軍基地に勤めていたので、兵役を終えて米国に帰還する兵隊さんから、グローブ、ミットなどを貰って来てくれたものですから、道具所有者として仲間に入れて貰えました。困ったのは、ボールなのです。当時の軟式野球のボールは質が悪くて、すぐ割れてしまうのです。小遣いが溜まると、ボールを買ってくるのですが、手作りバットも混じる中での酷使にすぐパンク。終いには、手作りの硬球・・・少年硬球という市販品も出ましたが、それのイミテーションを作って来た器用な奴がいまして、重宝しました。ゴルフボールを芯にして毛糸を巻き、帆布のような丈夫な皮を着せたものでした。これは、変形しますが割れないので・・・・
体力に劣る「チビ」が、野球少年達の中で、存在感を維持出来たのは、実は「ルールブック」のお陰でした。審判をして下さる先生よりも、はるかにルールに詳しかったのです。試合中に、審判に抗議するのは「チビ」の役割。単純なアウトセーフは抗議しようもありませんが、守備妨害とか打撃妨害とか、ちょっとややこしいことになると、ベンチを飛び出し、やおら尻のポケットからルールブックを取り出して、食い下がります。面白かったです。
二年生になってからでしたが、転校入学の生徒が増えました。大陸から引き揚げてきた家庭や、国分寺に新しく出来た企業の住宅に移ってきた子供達ですが、おしなべて知的レベルが高く、遊んでばかりの「チビ」も少し勉強するようになります。先生も充実してきます。「チビ」は相変わらずチビでしたが、友達が変わって行きました。このころからの親友達10人は、(亡くなった人をのぞいて)今でも付き合っています。其の仲間が慕った上原先生もこの頃来られたのだったでしょう。卒業してからも、毎年正月に先生の家に集まって、遊んでいました。先生が亡くなられるまで続いたのです。通称「上原会」。皆が企業戦士であった頃は、情報交換の場でもありました。不思議な事に同業者がいなかったので、世間を知る良い機会として、勉強させて貰えました。
三年になると、元高等小学校の生徒は全部卒業しましたから、「進学組」「就職組」というクラス作りに変化して行きます。当時、高校への進学率は、まだ35%です。こうしたクラス編成も当然のことだったでしょう。
2年生の終わり頃からだったでしょうか、野球チームを3つ作りまして、リーグ戦などをしました。最初に出来たチームは、中学のチームと云える優秀なプレーヤー群、其の次のレベルのチーム、そして、好きだけどあまり上手くない第3のチーム。この第3チームの監督が「チビ」です。
第三のチームは、実力的にはとても勝てません。何とか引き分けくらいには持ち込みたい・・・・実際に何敗したのか覚えていませんが、念願の引き分けは一回記録できました。日暮れが迫った時、変化球投手を起用して、逃げ切った?のでした。このリーグ戦を中心にした「学球新聞」が発行されました。主筆が「チビ」。こういうの好きだったのですね。それで、後に、技術系の大学に進むというと、驚いたと云った人がいます。その方は、新聞など作っていたから、文化系に進むと思っていたそうです。
たいして目だたなかった「チビ」が、突然有名になったのが、高校進学のための「アチーブメント・テスト」でした。此のテストは、中学生の学力テストですが、東京都ではこの年が最初だったのか? 兎に角、この点と内申書で、公立高校の入否が決まると言われました。
受験場は府中でしたが、詳しい記憶がありません。
「チビ」の成績は、国語96、社会92,理科85、数学97 合計370。
当時、父が中学校の説明会で聞いたらしい各高校の安全ラインの記録がありました。立川280、国立260、小金井240、五商240、二商240。どこでも大丈夫だと言われたようです。
このこと自体は、たいした事ではないのですが、国分寺中学からの受験者の平均点は、多摩地域に3年前に作られた新制中学のトップだったのだそうです。個人ランキングで、「チビ」は、同地域の第3位だったといいます。突如「天才」の仲間入りをしてしまいました。そんなことから、中学校から頂いた表彰状が「善行賞」。この賞状が面白いのです。「右者頭書のの善行につき本校行賞規定に依り之を表彰する」。肝心の頭書は空欄なのです。どうやら、国分寺中学の名前を世間に知らせたという善行だったようです。
この国分寺中学の平均点アップに寄与したのが、先ほど書いた「上原先生」の「社会科」補修講義でした。「ヤマがあたった」という状態が発生したのです。試験の前日だったか前々日だったか、下校しようとしている時に、「すぐ教室にもどれ、教えるのを忘れていたことがある」と、呼び返され、ふくれっ面で聞いた部分が、出題されたのです。試験場で問題をみて、思わず顔見合わせてニヤリだったのでした。恐らく全員10点近く稼いだでしょう。
 このアチーブメントテストで、好成績を得た「チビ」、こういうテストに結構自信を持ったのかも知れません。3年後にも奇跡(?)を起こしてしまうのです。

2017年8月6日日曜日

2017/08/05: My Family History(10) 一修山慧居士 (その1 小学生時代)

木瓜爺が、自誓戒名として決めた「一修山慧居士」、一生修行し山(自然)の英知を学びます といった意味合いです。
誕生は昭和9年(1934)12月25日。クリスマスの生まれなので、クリスマス・プレゼントでだいぶ損したようです。つまり誕生日のお祝いと別々には貰えないので・・・

生まれた時から、虚弱児童・・特に運動が苦手でした。幼い頃は左足が細かったのです。小学校に入る頃には、ほぼ左右揃っていましたが、運動音痴といいますか、自転車にはいつまで経っても乗れませんでしたし、泳ぐことも出来ませんでした。この自転車に乗れなかった原因は、三管器官の発達不良(平衡感覚が劣っています)にあったのかも知れません。小学校に上がるまでは、殆ど友達がいませんでした。幼稚園にも入れて貰えず(戦前ですから、当時は幼稚園に行けるのは、良いとこの子供、と思われた時代です)、家では一人で遊んで居ました。玄関の横から庭に行ける路地が作られていましたので、そこで遊んでいました。家の中にいるときは、本を見ていることが多かったと思います。「科学」を「漫画」で解説した本が大好きでした。ですから、小学校一年生としては、知識的には大天才?になっていました。

「昭和16年4月:大阪市東住吉区 田邊国民学校 に入学」 一年生の時、長谷川先生という女性の先生にかわいがっていただきました・・えこひいきというのではなく、それまで集団生活をしたことの無い、身体の弱い子供ということで、よく面倒を見てくださったのでしょう。そして、12月8日、戦争が始まりました。
2年生になると、担任が替わりまして、やはり女性の先生でしたが、この方は怖かったです。つまり、普通に扱われ始めたということでしょう。3年生になって、男の先生になりますが、名前以外は、あまり覚えていないのです。そう、3年生の時に水泳が始まったのでした。1,2年はプールの無い分校の方に通っていたのですが、3年で本校のプールで泳ぐことになったのです。短辺側が11mだったのですが、それを泳ぎ切れません。コンプレックス誕生の年でした。そうそう、2年か3年生の時に「クレヨン画」で賞をもらった事があります。1年生の時は、所謂「坊ちゃん刈り」だったのですが、戦争が始まってから、丸坊主になりました。家の縁側で、母が編んだ毛糸のセーターを着た姿のまま、バリカンで坊主刈りにして貰ったのですが、その姿を空中から眺めているみたいな構図で、絵に描いたのです。そんなことを何故覚えているかというと、其のセーターが「余った毛糸」と使って編んだものなので、色とりどりの横縞・・一番上は何色だったかなあ・・と、考え考え書いたものですから、記憶に残っているのです。そして、12月末、東京に出て来ます。
「昭和19年1月 東京都中野区新井小学校 に転校」 。新井で住んだ家は、変わっていました。一階と2階が別の住まいなのです。我々は最初2階の家に入りました。東京は寒くて、風邪をこじらせ、気管支炎になってしまい、学校は長期欠席です。続いて妹がジフテリアに罹って入院。母は妹について行って留守になりました。夜のご飯を炊くのは木瓜小僧の役割、父が勤めから戻っておかずを作ってくれます。
この、留守番生活小僧を見舞いに、母の弟が来てくれたことがあります。彼も実は結核療養中だったのですが、子供はそんなことは知りません。喜び勇んで、家の中でチャンバラごっこ・・そうしたら、おじちゃん突然血を吹いて・・ビックリ。この木刀切れるなあ!  隣の家で電話を借りて、病院に連絡・・妹が入院していた病院に、やはり母の妹が薬剤師として働いていたのでした。
というような、めまぐるしい生活を、半年ほどしまして、「昭和19年8月 国分寺第一国民学校 に転校」。「国分寺」での生活が始まりました。
今にして思うと、この国分寺第一国民学校の生活は、今で云う「いじめ(られ)」の連続でした。そう、被害者側なのです。しかし、登校拒否なんて状態にはないりませんでした。だって、日本は戦闘中です。そんなヤワなことを考えることはありませんでした。子供心に、覚悟をしていたのは、田舎に多い「都会ッ子いじめ」です。文化の違いがありますから、これは仕方が無いことでしょう。当時の国分寺は田舎も田舎、「だんべー」言葉の田舎です。標準語を使うと、異端兒扱いされるのが当たり前の世界。ましてや「大阪弁」の残る「チビ」がやってきたわけですから、良いカモ・・・所が、実際に、いじめられたのは、東京の区内から疎開してきた子供によってでした。つまり、転校生のグループの中の弱者として扱われたのです。
「疎開」という同じような背景によって、国分寺にやってきた転校生達は、住んだ場所も同じような区域でしたから、下校は一緒に帰ることになります。当時は、いつ警戒警報のサイレンが鳴るか分からない時代でしたから、なるべくまとまって登下校を行っていたようです。転校間もない頃は登校の時は、地元の子供達に連れて行って貰ったようです。帰りは、学年によって違いがありますので、前述のように、同級の転校生仲間と帰ります。この下校時がいじめの時間になりました。「チビ」という仇名がすぐ付いたほど身体が小さいものですから、反撃してこないという安心もあったのでしょう。年の割に老成していたチビですから、遊びの範囲として、大抵のことは許容していました。それが限度に達したのは、学期末の成績表を奪われた時です。いきさつは良く覚えていませんが、転校後の事ですから、お互いの学力も良く分かっていません。多分成績表の見せっこをしたのでしょう。 チビの成績表は、背の高い奴の手から手に渡って、返さないのです。時間にして、どのくらいだったのか、遂にチビも泣き出してしまいました。勿論成績表自体も くしゃくしゃ・・・隠しようもないので、親にも一切を説明しました。母は、受け持ちの先生に訴え、いじめっ子は、廊下に立たされる という罰を受けました。当然、この子達とは断絶。一緒に帰らず、別の道を通って下校するようになりました。この新しい道の方に住むFという子とも知り合います。これが、次のいじめっ子になるとは露知らず・・・
戦局は日本敗戦の道をたどります。防空壕に入っていたら、「焼夷弾落下!」の叫び声に、ビックリして飛び出したら、頭の上、空一杯に、赤、黄、青の光が散っていて、それがガラス窓にも映って、その綺麗なこと・・・落ちてくる焼夷弾を下から見上げていたのです。この時は、「唯法徹心居士」の所で書いた「寄宿舎」に移っていたのですが、焼夷弾は風に流されたのか、国分寺で最初に住んだ家の場所に落ちました。牛込から疎開してきていた母方の祖父、「高山端午」は、玄関の屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾を素手で拾って、道路に放り出し、火災を免れますが、焼夷弾の炎を全身にあび、大火傷を負います。この時の火災の様子は、約1km離れた「寄宿舎」の所からもよく見えました。そして、火傷を負った祖父が、逃げてきて「一法開心大姉の名前を連呼して助けを求めていた事を思い出します。我が家に伝わる秘伝の「お油」(真言宗醍醐派の高僧による祈祷を受けた護摩油だったと記憶しています)を塗って、ガーゼで覆って・・・治療法としては現代では良くないと云われていますが・・・体面積的には死んでもおかしくない範囲の火傷でしたが、奇跡的に一命をとりとめ、復活しました。
昭和20年8月15日 5年生の夏、敗戦の日を迎えました。これからどうなるのか・・本土決戦になったら、どこに逃れてゲリラ活動をすればよいのかと、考えていたことは消えました。日本人はどうなるのか、奴隷にされるのか、でも、毎日防空壕に潜る生活からは解放されたのだ・・・なにかホッとした気持ちもありました。
秋に入って、5,6年生が大八車を押して、旧日本陸軍の倉庫から、文房具を払い下げて貰って来ました。それらは、全員に配られましたが、品質は粗悪。鉛筆などは、いわゆる折れ心で、削ると折れた芯が抜けてきて使い物にならない物でした。こんな物を作っていたのだから、日本が負けるのも当然だなあと納得出来ました。ものを作る以上は、品質のよいものでなければ、なんの意味も無い、と、幼心に焼き付きました。
6年になると、国民学校で兵隊さんが兵舎に使っていた教室に6年生が入る事になり、大掃除をしました。床にはノミがぴょんぴょん跳ねていて、足に飛びついて来ます。それを慣れた手つきでつぶして・・・
その大掃除の最中に、Fがいじめを始めたのです。切掛けは何だったか忘れましたが、多分Fの悪ふざけに「チビ」が堪忍袋の緒を切ったのでしょう。とっくみあいの喧嘩になります。クラス一番の「チビ」と、クラス1,2を争う「ノッポ」の喧嘩です。しかも、Fは、柔道をやっていたようで、巴投げでチビを放り投げます。 クラス中が周りを囲んで面白がって見ています。体力的には喧嘩になりません。捕まって頭を抑えられ、身動きも出来ません。手足を振っても、パンチは届きません。何とか反撃したい!
目の前に「ノッポの臂」が来ています。戌年の「チビ」です。最後の武器に気が付き、 「ガブッ」その臂に食いつきました。噛みちぎる勢い。形勢逆転・・ポカポカ顔を殴ってきますが、殴られる度に、そのショックで、歯が食い込みます。殴られて、鼻血も出ましたが、それも相手の臂の所に流れて行くので、まるで嚙まれて出血したように見えたでしょう。とうとう敵も泣き出しました。かくて、此の喧嘩は引き分け・・・そして、「チビ」へのいじめも無くなりました。
この頃の喧嘩は、相手の内臓を痛めるような「けり」は、まず出なかったように思います。誰でも蹴るようになったのは、プロレスが流行してからでしょう。
「いじめられる」ということについては、これらの事件で、かなり耐性が付きました。

昭和22年3月 国民学校卒業。 4月からは「小学校」に戻ります。つまり、「チビ」は、小学校を出ていないのです。国民学校に入って、国民学校を卒業しました。
成績表は、紛失した年もあるようですが、一応残っています。4年生までは、休みも多かったのに、優が並んでいます。
次回は中学時代を思い出しますが、まだ「チビ」の名前が続きます。

2017年7月25日火曜日

2017/07/25: My Family History(9) 一法開心大姉

「唯法徹心居士」の妻、「一法開心大姉」は、木瓜爺の母です。
出家から還俗して始まった「村岡家」とは違って、先祖代々の系図がある「高山家」の分家に産まれています。「一法開心大姉」の兄にあたる方から頂いた「略系図」によると、「元寇」の時に、名を挙げた四国の水軍、「河野通有」の孫 通直が、「高山(こうやま)家」の初代だそうで、十一代目の高山萬助通永の弟「高山久五郎道廣」が分家したようです。この道廣の次男「端午」という人が、木瓜爺の母方祖父にあたります。「端午」の兄の娘が、外交官の「都倉栄二」氏に嫁入りし、その子供が「****」氏なのだと聞いてびっくりしました。有名人が親戚だったのです。

 この母は大正四年七月二十九日の誕生ですが、当時の戸籍では、「高山久五郎」を前戸主とした戸籍(愛媛県周桑郡福岡村大字丹原、)に記入されており、そこでは「光子」と記載されています。ところが、次の「高山端午」を戸主とした戸籍(愛媛県周桑郡丹原町)では、「光」の一文字になってしまっているのです。当時は、全て手書きの書き写しですから、こうした誤りというのは、やたらにあったようです。
このあと、「高山端午」は、兵庫県武庫郡西宮市に移っています。詳しい事は知りませんが、回船問屋つまり船を使った運送業を営んでいて、たいそう羽振りも良かったようです。「光(てる)」は、お嬢様として育ちました。ところが、鉄道の発達によって、状況が変わります。船自体も、大型船に変わっていったでしょう。回船問屋としては、閉店の憂き目を見ることになりました。「光」は女学校中退で働くようになります。
その職場の上司として、「唯法徹心居士」に巡り会ったのですが、入籍の時期からみますと、今で云う「出来ちゃった結婚」のようです。なにしろ、三ヶ月後に、木瓜爺が誕生してしまっています。
 木瓜爺が生まれた時、「唯法徹心居士」はあまり喜ばなかったといいます。其の理由は、木瓜爺の左足が異常だったのです。右足に比べて、細くてしかも痣のように血管が浮いて見えたからです。奇形児ではないかと思ったのでしょう。こういう子供が生まれた理由は、「帯を強く締めすぎていたからなんだよ」と、母は説明していましたが、何故、帯を強く締めなければならなかったのかという点については説明しませんでした。木瓜爺がそれを理解したのは、この戸籍簿を見たときです。つまり、職場で、妊娠していることを隠したかったのでしょう。木瓜爺の左足のハンデは、ずっと続きました。小学校に入った頃から、殆ど半ズボンを穿いていません。今でも、左足の膝には、紫色の帯? 血管が目だちます。特に寒い季節には、まるで内出血しているように見えます。見た人に不快感を与えるだろうと、プールで泳ぐとき以外はずっと隠していました。
  本題に戻って、大阪在住時代の「一法開心大姉」は、「唯法徹心居士」の中国単身赴任の時期を挟んで、木瓜爺を育てます。姑と小姑のいじめ?に苦労したでしょう。
 木瓜爺の弟(「良仁瓔児」)を死なせたことも悲しい出来事でした。幸いにそのあと、妹が生まれました。妹は木瓜爺の5才下になります。「一法開心大姉」の晩年、この妹がずっと面倒を見てくれました。木瓜爺は、資金調達だけです。
 東京の戦後の生活では、「一法開心大姉」が一家の金主になります。山野美容学校に通って「美容師」の資格をとり、最初は住み込みの美容師、後には三鷹で自分の店を開きます。この店が、小規模ながらほぼ順調に経営できたおかげで、木瓜爺は大学にも行けました。
思い起こすと、パーマネントの世界にも、技術革新がありました。最初は「電髪」などと言われる、髪をカールさせるロット(軸だと思ってください)に巻き付け、電気のヒーターで乾かすという方法でしたが、やがて「コールドパーマ」という方法に代わります。これは、特殊な液体を使って、ロットを巻き、温風で乾かしてゆく方法です。この特殊な液体が、美容師の指を侵食?するのです。湿疹を起こすのですね。「一法開心大姉」は、この湿疹に悩まされました。手伝っていた妹も体質的には当然似ていますから、同じ悩みにつきまとわれます。だんだん改良はされてゆきましたが、一時は見ていられない惨状でした。そんな手を客には見せられませんから、ゴム手袋をはめていますが、手袋の中は高温多湿、良くなるわけがありません。
 「唯法徹心居士」が、還暦で旅だってしまうと、「一法開心大姉」も相当ショックを受けたと思いますが、木瓜爺の子供達つまり孫達と遊ぶのが一つの楽しみになり、休みの日には、孫達を連れて遊びに出かけてくれました。しかし、是が木瓜爺夫婦にとっては一つの困ったことになります。丁度、木瓜爺は、単身赴任で香港に行っており、家内が子供達を抱えて苦労していたわけですが、休みの日に、知らない間に孫をつれて出てしまうというような事が起こったようです。多分、情報交換不足だったのでしょう。そして、遊びすぎた孫達が、翌日熱を出して医者通い、という悪循環のサイクルに飛び込んでしまいます。
このままでは、子供を殺されるなどと、家内も精神的に参ってきて、別に暮らそうという発展に成って行きます。いろいろ重なって、木瓜爺一家四人は羽村に移ります。
そのあと、妹の結婚話がまとまり、店を閉じて、「一法開心大姉」は、国分寺の自分で立てた家に一人暮らしの形になります。一人だけでは、心配もありますので、家内の弟一家に、木瓜爺が住んでいた部分で暮らして貰うようになりました。
この時期、「一法開心大姉」は、借りていた店の大家さんと、観音霊場巡りなどをしていたようです。秩父霊場を繞った御朱印帳などが残されており、後に木瓜爺の秩父フォトウォークへとつながって行きます。
ただ、これらの交友関係がもたらした負の遺産も残されました。株で儲けた僅かばかりの金を例の「原野商法」に引っかかって、始末できない土地を買ってしまったのです。この負の遺産、木瓜爺も妹も悩みの種になっています。母としては、子供に土地をプレゼントしてくれたつもりなのですが、処分出来ないのです。市町村に寄附しようとしても、そんな使えない土地はいらんと云われてしまいます。これを種に、更に詐欺行為を働く連中もいるとか(処分してやるから金を出せというタイプ)聞きます。努力していますが、此のぶんでは、孫の代まで負の遺産として残りそうです。
「一法開心大姉」が、六十になり、年金を少々頂けるようになった時、80以上まで生きられるなら、直ぐに貰わずに五年後から貰うようにした方が得だよ、と説明したのですが、そんなには生きられると思えないから、直ぐ頂くと云いました。これは、誤判断でした。九十四まで生きたのですから、かなり損したようです。
そのあとすぐ、国分寺の家を建てていた土地が、再開発されることになり、自分の土地ではありませんが、二十五年以上住んでいましたから、地上権を補償金として支払って貰えることになりました。交渉には木瓜爺が当たりましたが、借財を残して死んだ「唯法徹心居士」の遺産が「地上権」としての蓄財だったのです。この臨時収入のお陰で、「一法開心大姉」の新しい家を八王子に求めることが出来ました。同じ土地の一部を使っていた「唯法徹心居士」の弟も、川越にマンションを買って移ることが出来ました。住んでもらっていた義弟にも、通常の立ち退き料の数倍の金を渡して、引越をさせました。
「一法開心大姉」の新居を八王子にしたのは、妹の嫁入り先が八王子であり、面倒を見て貰うのに都合が良いからでした。同居という事態も考えて、妹も自分の取り分から、購入費を分担しました。木瓜爺は、この家に関しては相続しないからということで、購入資金は出さないことにしました。実際には、生活資金のほうで援助はしていますが・・
こうして、七十二才で、「一法開心大姉」の新生活が始まりました。引っ越した頃は、散歩などもよくしていました。娘の方の孫達を育てる手伝いも楽しかったようです。八十八才の米寿の祝いをした頃は、まだ杖を使って歩いていましたが、歩く事がだんだんできなくなると、急速に衰えてきます。
一法開心大姉1 九十を過ぎて、入院を要する病も発生するようになりました。体調を崩して、そろそろお別れかと「ひ孫」をつれて行くと、ひ孫に元気をもらって、回復するということもしばしばありました。しかし、木瓜爺も七十を過ぎて年金だけの生活になったので、仕送り額も段々減少。生活基盤も縮小せざるを得なくなり、木瓜爺が、もう仕送りが困難になったよ、母さん自分の年金と預金で暮らせるかい・・・と、云ったら、直ぐに亡くなってしまいました。年末に入院し、正月にひ孫が見舞いに来てくれたのですが、生憎と「子供」は面会謝絶(インフルエンザなどの予防)といわれ逢えませんでした。もし、逢えていたら、ひ孫パワーで、もう少し生き延びたかもしれません。
 「唯法徹心居士」に「後を頼むよ」と言われた木瓜爺、たのまれたことを、やり終えたのでしょうか? 「一法開心大姉」は、遺産と云うほどではありませんが、墓を作る費用は、きっちり残してくれていましたから、それを使って、八王子の浄泉寺に新墓を作り、大阪の菩提寺から「学柳明圓沙門」「元柳明美大姉」「芳桂院小丘大姉」「唯法徹心居士」「良仁瓔児」を引越させて、一緒に葬りました。この墓は、Familyの墓なのです。
 「一法開心大姉」という戒名は、「唯法徹心居士」の名を頂いた時に、同時に頂いた戒名なのですが、なぜ、「光法開心大姉」にしなかったのか、疑問です。考えられるのは、「光」という字が、子供の戒名に使われる文字らしいので、避けたのかなと想像しました。墓石には「光陰」という文字を彫りました。「命は光陰に移されて、暫くも停め難し」という修證義の経文の語に、「光」の名は、隠れているのだよ・・という意味を含めています。

2017年7月22日土曜日

2017/07/22: My Family Story (8)  唯法徹心居士 その3

二代目「唯法徹心居士」が、三代目となるであろう若き日の「一修山慧居士」の進学や就職のときに、繰り返し云った言葉があります。
正しくは「寧為鶏口 無為牛後」 史記の蘇秦傳に出てくる言葉ですが、日本流の格言としては「鶏頭牛尾」と云われています。「鶏頭となるも、牛尾となるなかれ」です。

こういった裏には、自らの信念があり、それを継いでほしかったのでしょう。「一修山慧居士」が社会人となり、その妹も母の「一法開心大姉」が開いた美容院を助けて働くようになると、「唯法徹心居士」は、自分の夢に挑戦する気になります。規模は小さくても、自分の思い通りに仕事をしたいという夢です。それは、意外とも思われる分野でした。
 幼児の為の遊具作りなのです。当時幼稚園や保育園の必要性が高まっていましたから、着眼点としては悪くなかったようです。
 学歴としては文化系ですが、趣味的には、結構科学系にも詳しく、写真では、ガラス乾板に感光乳剤を塗って、フィルムに相当するものを作って使ったり、現像薬を自分で調合し使っていました。引き伸ばしも自宅でやっており、木瓜爺は見て覚えました。
 戦時中に自宅で使っていた「高一のラジオ」(当時のラジオは真空管式ですが、4本の真空管が使われていたので、並四 と呼ばれており、もう一本真空管を増やして高周波増幅を付けた感度のよいのが 高一 だったのです)は、自作の物でした。戦争の末期から戦後にかけては、子供の木瓜爺こと「一修山慧居士」に、変圧器を作らせたり、電動機を作らせたり・・・そういう材料をどこからか見付けて来ては、参考書と共に子供に与えていたのです。
残念なことに、純技術的には力不足で、ちょっと巻き線が細すぎ、完成した変圧器を使ったら、熱を持って煙が出て来て、大慌てになりました。危険でしたが、面白かったです。木瓜爺つまり「一修山慧居士」が、大学に入るとき電気科を選んだのは、こういう子供の頃の工作体験があったからでしょう。
話を戻しまして、「唯法徹心居士」の作った遊具というのは、例えば、幼児が2m程離れて向かい合って腰掛け、足元のペタルをこぐと、メリーゴーランドのように回り出すというようなものです。安全性などに工夫の余地は有りましたが、電気のような動力を使わず、子供自身の力で動きを造り出して遊ぶものが多かったように思います。
いくつかの特許をとって、数人の職人さん達との会社を作り、商品化し、全国の幼稚園などを回って売り込みました。遊具などのない新設の幼稚園や保育園では、当然欲しがります。納品まではほぼ順調にいったのです。ところが・・・金を払ってくれないのです。これらの幼稚園や保育園は、市などの助成金が頼り、助成金がでたら払います・・・で、引き延ばすわけです。全国販売をしたものですから、集金に行く費用だけでも大変、行っても払ってくれない・・・忽ち、資金繰りがショート。あえなく、倒産です。
「唯法徹心居士」の夢は、数百万の負債を残して消えました。残念だったろうと思います。残された人生は、サラリーマンに戻り、この負債を消すことに使われましたが、利子支払いが精一杯、最初に借りた元金の部分は「唯法徹心居士」の死後、「一法開心大姉」と「一修山慧居士」で、返済処理をしました。
この二代目の失敗を見て、三代目「一修山慧居士」は、鶏口となるのは、技術だけでは駄目だ、経営学、経済的知識、人間などの総合的な理解力が必要なのだと知り、自らの方向転換を図ります。
「唯法徹心居士」が「お爺ちゃん」になって2年目、還暦の祝いに、「一法開心大姉」と夫婦旅行をしていらっしゃいと、子供二人が、周遊券と宿泊券を用意して、伊豆の旅行に送り出しました。これは嬉しかったようで、戻ってから、旅の様々の夫婦げんかを披露してくれていました。ところが、春の初め、夜になるとひどい咳をするので、老人性結核だと、孫に移してしまうと大変だと受診することを奨めたところ、本人は武蔵境にある日赤結核病棟で検査を受けます。この選択が、彼の最後の不運だったのです。肺癌だと思わなかったのは、前年に肺癌で死んだ「芳桂院小丘大姉」の場合と、出現している症状が全く異なっていた為でした。
日赤で撮した胸部レントゲン写真を借りてきた事がありますが、別の病院のベテラン医師は、一目見て、「これは肺癌だよ、この大きさなら手術で取れるかもしれない」・・・しかし、日赤の結核専門医は、入院させてパスか何かを飲ませていたのです。この間約一ヶ月。ピンポン球より小さかった癌組織は、こぶし大に育ってしまいました。これは、結核非ずと、がんセンターで再検査し、肺癌と言われましたが、ベッドがなくて収容出来ないというので、別の病院を見つけ、転院させたのですが、特すでに遅しでした。そういえば、この手術の時、輸血する血を、木瓜爺の勤務していた会社の方がたに献血していただいて助かりました。十分なお礼も言えず、そのままになっていたことを、今頃思い出しました。本当にありがとうございました。
手術直後、摘出した肺の患部を指でおして、正常部分との堅さの違いを知りました。このとき、ずばっと聞きました。「あと、何ヶ月ですか?」 つられた医師が「三ヶ月です」、すぐ慌てて打ち消しましたが、覚悟しました。
手術後に、段ボールの切れ端に本人が書き残した句がありました。
「肺ひとつ、捨てたる秋の 夜長かな」 悲しい句です。 
一時は退院出来るかなと思った程度の回復に見えたのですが、十一月の終わりに、腹部にもっこり腫瘍が現れました。転移再発でした。亡くなる一週間ほど前、まだ、33才だった木瓜爺の手を握り、「あとをたのむよ」と言い残しました。これから、少しのびのび遊んで貰おうと思っていたのに、早すぎる旅立ちでした。
「あとをたのむよ」と云った責任上、母が亡くなるまで、ずっと木瓜爺の健康を守っていてくれたようです。節煙はしたけれど禁煙まで行かない木瓜爺が、肺癌だといわれずに済んでいたのですから・・・
次回は、、「一法開心大姉」の方を、さらっと書きます。